2012年6月12日 星期二

8月13日放送、NHKスペシャル、「日中�争~なぜ�争は�大したのか~」 - Apes! Not Monkeys! はてな��


這是2006年日本NHK的紀錄片。
個人認為是比較客觀的。不像國內完全把南京大屠殺當作一個政治牌來用。

大屠殺中死亡的人數並不是該片的重點。。。

如果要仇恨,光是對日本人是不全面的。不可容忍的是,蔣介石指揮幾萬正規軍守城而後便衣消失在城內這一嚴重危害百姓的行徑!

[][]8月13日放送、NHKスペシャル、「日中戦争~なぜ戦争は拡大したのか~」Add Star

オープニングは盧溝橋。盧溝橋事件の日に遠足で盧溝橋を見学する中国の生徒たち。盧溝橋事件以前の、それこそ満州事変~満州国建国をオミットするのは妥当か…という問題はあるが、いずれどこかで区切らねば放映可能な番組にはならないわけで、日中戦争の長期化をテーマとするならばまあ妥当なところか。

日中戦争の実態を明らかにする史料が世界各地で発掘されているという紹介の後、話題は今年公開されたという蒋介石日記(台湾、国民党党史館所蔵)に。蒋介石の「国際戦略」が明らかになる、狙いは日本への「経済制裁」と。ヒトラーは日本との関係を維持しつつ、武器輸出を(偽装して)続けるという決断をしていた。

中国は短期間で屈服する、と日本軍が考えていたことを示す文書=松井石根の「出征日誌」(自衛隊所蔵)。「速戦即決」との文字が。元日本軍兵士KY氏(第9師団、金沢。以下、放送では実名が出ている元兵士はイニシャルにする)も「負けるという感覚はまったくなかった」と証言。中国軍は烏合の衆だ、と。

以上が導入部。


「なぜ戦争は拡大したのか」という問いへのこのドキュメンタリーの第一の回答は、日本(軍)が国民政府(軍)の抗戦意思を侮り、「一撃で屈服する」と誤って考えたこと、である。近衛首相も軍中央も、ソ連を警戒して中国との戦争を拡大するつもりはなかったが、武藤章を中心とする中堅参謀が「対支一撃論」を唱えた、と。これに関連して紹介される史料は次の通り。

  • 河辺虎四郎少将回想録(3、4個師団での「対支一撃論」を主張)
  • 松井石根の参謀本部への電文(南京への進軍を主張)
  • 「松井集団参謀長」宛、参謀本部からの指示(制令線を守れ、と)
  • 下村定(作戦部長)回想録(松井石根の独走に軍中央で呼応、11月24日大本営御前会議で軍中央の不拡大方針を伝えるはずが、独断で南京その他を攻撃することを考慮、と報告。叱責はされたが処分はされず)
  • 揚子江デルタ付近の衛星写真に合成された制令線の画像(キャプチャーしたもの。南京攻略戦がいかに「上海居留法人保護」とは関係のない戦闘であったか、が一目瞭然。)
  • 第6師団の岡田重美参謀の撮影によるフッテージ(制令線の一端である嘉興の町が映っている。撮影の当日、すなわち11月24日に嘉興を越えて進軍した、と。また岡田参謀のフィルムからは、おとなしく行進する、あるいは座っている中国兵捕虜の様子を撮影した部分も後に紹介)。

このように、日中戦争の拡大を「対支一撃論とその破綻」を中心に据えて描こうとするならば、盧溝橋事件から南京陥落までの時期を題材として選択する、というのはまずは妥当な判断であろう。

「対支一撃論」が結局は通ってしまった背景として、満州事変において蒋介石が積極的に抵抗しなかったこと、を指摘している。ところがそれから6年、国民東軍は装備や錬度を向上させ、蒋介石の抗戦意欲も十分だった。国際世論を味方につけて抵抗するという戦略ももっていた。こうした国民政府の変化に日本側が気づかなかったのが第二の原因と言えよう。この点に関して紹介される史料、証言は以下の通り。

  • 蒋介石の日記(盧溝橋事件翌日、「応戦」「雪恥」「国土奪還」の決心を述べる、11月30日、南京死守を強調)
  • 元侍従秘書、何志浩氏の証言(盧溝橋事件の知らせを受けた蒋介石の決意を証言)
  • ドイツ軍事顧問団長ファルケンハウゼン将軍から外務省宛の電報(中国兵の士気が高い、と報告)
  • ファルケンハウゼン将軍が盧溝橋事件の前に作成した地図(防御陣地の配置がわかる。日本軍の上海上陸を予測していた)
  • フライブルク大教授ベルント・マルチンの解説(華北ではなく国際都市上海での戦争こそが国際世論の注目を集める、と)
  • ヒトラー発言を記録した文書(日本との関係に配慮しつつ、中国への武器輸出は偽装して続ける、と)
  • 蒋介石の秘書長の日記(蒋介石は徹底抗戦を指示。ブリュッセル会議で国際世論に訴える目論見だった)
  • 元蒋介石直轄部隊Y氏の証言(激戦地、四行倉庫の死守を命じられた、と)
  • ブリュッセル会議での中国代表の発言フッテージ(徹底抗戦を表明)
  • 蒋介石からスターリンへの電報(参戦を促す)
  • 蒋介石から中国軍司令官への電文(1ヶ月で大きく国際形勢が変わる、南京を守れ、と。ちなみにここでは南京防衛軍は約10万と紹介)
  • 在モスクワ武官から蒋介石への電報(ソヴィエト高官のことばとして「中国の存亡に関わるとき、ソ連は決して座視しないだろう」と)
  • スターリンから蒋介石への電報(兵器の供給は増やすことができる、また12月5日に、即時参戦はできないが2ヶ月後の最高幹部会議を経れば…と気を持たせる返事)
  • 元軍高官カク柏村氏の証言(ソ連の日本に対する警戒心を解説。自らもソ連製大砲を使った、と)
  • 松井石根の「出征日誌」(「速戦即決」との文字が)
  • 第9師団歩兵第7連隊の元通信兵士KY氏の証言(負けるという感覚はまったくなかった、中国軍は烏合の衆だと思っていた)

しかしながら、実際には日本軍は上海で苦戦を強いられることになる。多大な犠牲が敵愾心を昂進させ、南京事件の一因となったわけだ。

  • 元通信兵KY氏の証言および日記(上海戦の戦場の酸鼻な有様、「チェッコ」(チェコ製機関銃)の威力。「地獄の音楽」「悪魔の笑い声」のような発射音、と。追撃戰での厭戦気分。「交替になるべきはずなのに」。次々に来る攻撃命令への疑問)
  • 中国軍の元兵士C氏の証言(武器はドイツから来た、と)
  • 元機関銃兵KI氏の証言(左腕を撃たれた際のことを証言)
  • 元歩兵HT氏の遺族の証言(HT氏の遺品を紹介)
  • HT氏と同じ村から出征したTT氏の陣中日記(HT氏の戦死を知り、「胸が熱く」なり「暴支膺懲のかけ声がしみ込む」、と)
  • 第9師団歩兵第7連隊戦闘詳報、10月22日の死傷表(2566人中450人の戦死、905人の戦傷。なお、同師団は上陸後1ヶ月で1万を失う)

杭州湾上陸作戦によりようやく中国軍を敗走させた日本軍は、現場の独走を中央がやがて追認し、南京攻略戦が始まる。この点に関して紹介される史料、証言は次の通り。

  • 衛星写真に日本軍の進撃路を合成した地図。南京戦が包囲殲滅線であったことを押さえておかないと、南京事件はよく理解できないので、これはよかった。(キャプチャー画像はこちら)。
  • 12月上旬の激戦地、淳化鎮(南京郊外15キロ)の風景
  • 南京師範大、張連紅教授らによる農村地帯での聞き取り調査の模様(寝台を薪にするために盗まれた、略奪に抵抗した老人が殺害されるのを目撃した、父親の死体が木に吊るされていたという非常に具体的な証言。調査では録音して書きおこし、再度本人に確認するという手順を踏んでいること、殺害以外にも強姦、放火の証言があることをナレーションで紹介)

そして南京事件に関して紹介される史料、証言は次の通り。

  • 元通信兵KY氏の日記(陥落直後、中国兵の軍服、兵器が城内に散乱しているのを目撃。「奴ら、便衣を着たらしい…」 相当緊張していた、と。放置された軍服、武器を撮影したフッテージも紹介)
  • 歩兵第7連隊の戦闘詳報(入場式を4日後に控えた、とのナレーション付きで、城内掃蕩の命令を紹介。「青壮年は全て敗残兵、又は便衣隊と見なし、全て逮捕監禁すべし…」 )
  • 同連隊の元兵士NS氏の証言(敗残兵と非戦闘員とを見分けることの困難さについて証言。「どうですか? 分けれると思いますか?」と。また、敵の数は「10万か20万か知らんけど」という認識だったとのこと)
  • 入場式を控えての、歩兵第7連隊への命令(16日に敗残兵を「捕捉、殲滅」せよ、と)
  • KY氏の日記(下関での虐殺を目撃した知り合いからの目撃談を聞いた、「若者を捕獲して、5人ずつくらい縛って、(…)銃殺したそうだ」)
  • NS氏の証言(河に飛び込んで逃げようとした捕虜を軽機関銃で殺害するのを目撃した、自分も一人斬った、と。「陣地攻撃で殺すのと、全然意味は違うわね、それも非戦闘員かもわからん(者を)」 「虐殺と(言われてもしかたない)」と。「(証言すると)すっきりしたような、申し訳ないような気持ちになる」「戦争について口をつぐむべきではない」とも)
  • 歩兵第7連隊の戦闘詳報(12日間で敗残兵6670人殺害)
  • 陸軍省の通達、「国際法規ノ適用ニ関スル件」(ハーグ陸戦法規の内容の紹介。日中戦争には宣戦詔書が不在というナレーションによる指摘、陸軍省は「国際法をことごとく適用することは適当でない」「俘虜ということばも避けよ」という認識であったことをナレーションで指摘)

蒋介石が明確な国際戦略を持っていたのに対して、日本は(37年段階での)ドイツの動向、アメリカの決意、ソ連の決意(結果的に参戦は間に合わなかったが)などを見誤っていたと言える。もっとも、蒋介石もブリュッセル会議においては期待通りの結果を得ることができず、これが日本に誤ったメッセージを送ったと言えば言えるかもしれない。しかし上海での激戦や南京事件は国際社会に伝えられ、重慶政府は国際世論の支持をとりつける戦いで日本をリードする。

  • ルーズベルトの演説フッテージ(平和のための関与を辞さない、と。またアメリカが日本軍の上海爆撃を批判したこともナレーションで紹介)
  • 上海、四行倉庫の争奪戦を撮影したフッテージ(欧米に報道された、とのこと)
  • 南京入場式の映像(南京陥落が新たな戦線拡大のきっかけに、と)
  • 南京陥落を祝う提灯行列、戦争ごっこをする子どもたちのフッテージ(近衛の「国民政府を対手にせず」宣言の紹介とともに)
  • ドイツ外交官ローゼンの報告書(マギー・フィルムを見るよう、ヒトラーに進言。ただし、この時点ではヒトラーは中国への軍事顧問団派遣も打ち切っており、功奏しなかったようだ)
  • マギー・フィルムの一部(「何千人もの民間人がロープで縛られ、川岸などに連行され、機関銃や銃剣、ライフル、手榴弾で殺された」「2人の日本兵に首を切り落とされそうになった女性」。教会などで上映会が行われた、という紹介とともに)
  • 『ライフ』38年5月号(マギー・フィルムを紹介)
  • 蒋介石の日記(アメリカへのはたらきかけに注力。毎月10万ドルの宣伝費用を惜しまずに使え、と。また38年2月6日の日記では「団結力」「持久力」の勝負だ、と)

以上、新資料の目玉としては蒋介石の日記があるわけだが、全体として歴史学の通説にしたがったまとめであろう。日本軍の軍紀の弛緩ぶりがほんの少ししか紹介されていないところ、補給の無視についてまったく触れていないところ…などは南京事件についての描写としては不満が残るが、全体のテーマが「日中戦争はなぜ拡大したか」だからやむを得ないところか。反対に、農村部での民間人の犠牲について中国側の証言を紹介しているところは、政府の公式見解よりも踏み込んでいると言え、評価できるところだ。


南京事件否定論者の中には、蒋介石が日本を持久戦に引きずり込んだ点、国際社会の支持をとりつけるための「情報戦」に注力したことをまるでけしからんことであるかのように非難する人びとがいる。しかし蒋介石の策にはまったことを悔しがるならともかく、中国側を非難するのはお門違いであろう。他国の軍隊が日本に上陸してきたが、これを直ちに撃退できるだけの力がないという場合、たとえ「持久戦」に持ち込んででも撃退しようとは思わないのだろうか? また、国際社会に相手側の不当性を訴え自国への支援をもとめようとはしないのだろうか?

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